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【三体思想】第三部★自我意識の変遷

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natan
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私の宇宙からこんにちは、natanです。

今回から三体思想の第三部に入ります。

第三部のテーマはずばり「自我意識」です!

空間の捉え方の変遷

natan
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これまで意識と身体と空間の三位一体構造に関して、とくに身体と空間に関して詳しくお話をしていただきました。

natan:もう一つ、三体では自我意識の発達についても研究されているかと思います。

シュタイナーによると、この地球紀は自我を育てるための宇宙時代であると言われています。

空間の見え方に関しても、紀元前の古代の人たちは平面的に世界を捉えていたのではないだろうか?とも言われています。

人類全体の自我意識の変遷について、三体的に見て何か仮説立てられるものはありますか?

Ricardoさん
Ricardoさん

人間意識全体の発達が歴史に射影されてきたのではないだろうかという考えは、書籍『奥行きの子供たち』の中でも元臨床心理士の春井星乃さんもおっしゃっていて、私自身も同様に考えています。

Ricardoさん:歴史の中で人間全体の精神発達がある一方で、それぞれの時代における自我のあり方も当然変わってきていると思います。

先程のnatanさんの質問にもあったように、空間の捉え方一つとっても、原始時代における洞窟などの壁画や古代のヒエログリフが示すように、世界を平面的に捉えていた時代はあったと思います。

そしてルネサンスを機に、空間に対する奥行き感がより出てきたのではないでしょうか。

象形文字

Ricardoさん:一方で、日本の絵画にみるように、江戸時代まではわりと平面的な描写だった様ですよね。

葛飾北斎らが西洋の遠近法を取り入れているので、もしかしたら江戸時代あたりが日本人にとっての幅化した奥行きの普及の契機になったのかもしれません。

それが明治時代以降、西洋思想の受け入れにも繋がったのかなと。

でも、もともと日本が持っていたような平面的な空間特性は、今でも漫画の世界には生きているように思います。(それが劇画調になってくると、当然奥行きをよりはっきり描くようにはなりますが。)

最新のテクノロジーを活用したシステムやデジタルコンテンツの開発を行っているチームラボは、プロジェクションマッピングなどを用いて幻想的な空間を演出することで有名ですが、日本の絵巻物に通じる空間手法を用いている作品もあるので、日本人の中にある空間性がそれらに引き継がれているのかなと思います。

二分心について

Ricardoさん
Ricardoさん

西洋と日本など、文化圏による空間の捉え方は異なりますが、人類全体に関わりそうな、興味深い話があります。

Ricardoさん:これは三体の話ではないですが、『神々の沈黙』という書籍を書かれた心理学者のジュリアン・ジェインズが唱えている説です。

Ricardoさん:その説はのちにトール・ノーレットランダーシュ著の『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』でも引き合いに出されて話題になりました。

Ricardoさん:その説によると、紀元前以前の人間は、現代人とは違う意識の形態を持っていた可能性がある。

それは「二分心」という「二つに分かれた心」を持つ意識だったのではないだろうかという説です。

この説は非常に面白くて、彼は古い文献を過去に遡って調べていく際、それぞれの時代における当時の人間の理解レベルや世界認識などを推測していったそうです。

当然時代を遡れば遡るほど、「文盲」とよばれる読み書きができない人が増えていきますよね。

彼の話の中で代表的に出てくるものとして、古代エジプトの話があります。

その時代は約九割の人間は文字を読めない状態です、とくに民衆は。

その人たちに対して大きなヒエログリフのような石版をバーンと掲げて「王のお触れだ!」ということをやるわけですが、当然民衆はそこに書かれたものを読めないんです。

では、どうやって王のお触れが民衆に伝わっていたかというと、当時の人間の意識状態からすると、おそらく文字情報ではなく、バーンという何か強烈なイメージ情報が伝わることで伝達がされていたのではないかといわれています。

その推測をした考え方の一つに、人間の脳の右脳と左脳をつなぐ「脳梁(のうりょう)」という部位があります。

脳梁

Ricardoさん:彼の説によると、紀元前以前の人間はその脳梁が現代人より太くなく、もっと細かったのではないだろうかと推測しています。

ようするに、右脳と左脳のつながりが弱かったのではないだろうかと。

その場合何が起こるかというと、情報から世界を認識して思考する左脳と、イメージや印象で捉える右脳が、当時の人間の意識においてはそれぞれが別物として現れきたのではないかとてくるんです。

たとえば、ヒエログリフや像など何か印象の強いものを見せられたときに、一人の人間の中に現れてくるのはそれらイメージだけでなく、神の声という形でバーン!と伝わってくるような心理状態があったのではないだろうかと。

そういわれる理由は、神の声などを表象するような文章や文献が古代には多かったからだそうです。

現代人が偶像を見た場合、ただの人形としか見ませんが、もし古代人のように脳梁が細く右脳と左脳のつながりが弱い場合、偶像を見ると視覚情報とは別に、イメージが神の声で聞こえたりする可能性があると。

神

Ricardoさん:なので、そういう人間に対しては文字を読み取らせることよりもイメージを伝えることの方が当時のお上の人たちにとっては有益で、だから印象の強いものをバーンと示す方がより効果がある。

そういう伝え方をしていたのではないだろうかと推測される文献もあるそうなんです。

あと、これは推測ですが、古代人は文盲が多いので、昔の物の伝え方は間接的な表現が多いんですよね。

たとえば巨大なものに対しては「山のように大きい」という表現が使われたりしていたようです。

その言葉が現代まで伝わって、「山のように大きい○○」と言った場合、「その山ってどこにあるの?」とその伝承が起きた場所を探そうとするんです。

「山」という言葉が出てくるからそういう山がどこかにあるんだろうとか、「海のように深い」と言ったとき「ではその海はどこにあるんだろう?」と現代人は思うかもしれないんですが、当時の人たちにすれば、それはあくまで表現であって、「大きい」や「深い」を示すイメージだったりするんですよ。

ようするに、イメージを想起させる何かを使わないと、当時の人たちは伝わらなかったんだと思うんです。

おそらく客観的な言葉の使われ方がされていない時代だったと思われるので、印象の強い言葉やイメージを想起させる物を使って伝達していた可能性があるといわれているんです。

多神教から一神教へ

Ricardoさん
Ricardoさん

エジプト時代の太陽信仰から一神教が始まったといわれていますが、もしその時代までこれまでお話してきた二分心の意識状態を持った人たちが多かった場合、たぶんあちらこちらで神の声を聞いていた可能性があるんですよね。

それは多神教の考え方につながるじゃないですか。

natan
natan

そうですよね。八百万の神というか…。

Ricardoさん:もともと自然崇拝は多神教というか、神じゃなくても精霊の世界ですよね。

自然崇拝の延長に多神教があるのかなと思うんですが。

二分心の状態で、あちらこちらで神の声を聞いていたとするならば、そういう思想が自然崇拝や多神教として存在していた、それが一般的だったというのは頷けるなと。

それを太陽信仰のように、それら精霊の最上位にいるのが太陽である、全てを太陽が一括していると形に変わったのかなと。

エジプト文明

Ricardoさん:古代エジプトの時代は、王が入れ替わるごとに多神教になったり一神教になったりしたこともあったそうですが、ゾロアスター教のような古代宗教から一神教の発端になった宗教が現れ、それがユダヤ教からキリスト教などにつながっていくように、一神教は強くなっていくんですよね。

おそらく一神教が発達してきた時代背景には、二分心の意識状態の時代から、脳梁の発達によって右脳と左脳が結びつきを強めたような時代があったとすれば、神の声が聞こえなくなった民衆に対して、王が「私の声を聞け」と言えば聞いた可能性があるわけです。

そういった変化を経て、二分心だった人間が、ある種の一つのものに意識を集中していくような意識状態に変わっていくことで、一神教を受け入れる基礎ができてきたのかもしれません。

とはいえ、これらはジュリアン・ジェインズの仮説でしかありませんが、非常に興味深い仮説だと思ってます。

Ricardoさんの宇宙観

Ricardoさん
Ricardoさん

あと、三体的といいますか、私自身の宇宙観ではありますが、自我が世界と対峙している関係性の中では、生命としての人間である以上、自らの環世界の中でしか人間的な意識は起き得ないんじゃないかと思っています。

Ricardoさん:自分の意識は自分の環世界の中の範囲内だけで、さらにその先は人間の意識では見られないんじゃないかと。

そうした中で人間は世界をどう捉えるかというと、自己の投影として環世界を見ているのかなと思うんです。

自己を鏡写しにしているので、自己という一意性を空間側にも求めているのかなと。

その意識の作用が一神教のベースにもなっている可能性はあるかもしれないと考えています。

推測ですけど、根源的な構造では、自己と他者の円心関係において、もともと偏在化していた自己が局所化して他者が遍在化して見えなくなり、幅的な空間ができていったときに、局所化した自分を空間に投影して環世界として見ているんじゃないかと思っています。

円心01

Ricardoさん:そのとき、遍在化した全てを見ることはできなくて、何とかして意識を向けた先を一意に見ようとしてまうのかなと思ってます。

あちらこちらにいろんなものが存在するような多神的な自然崇拝のベースとなる空間背景がありつつも、そこに自分を投影していくというような環世界の見方があったのなら、自分を投影すること自体が一意的なものの見方の基礎になっているのではないかと。

多神教から一神教の時代背景に変わってきた経緯にはそういった理由もあるのかなと思っています。

次回につづく…

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