私の宇宙からこんにちは、natanです。
今回のあたりまえなことばかりシリーズは、既存の存在論について私が思うことをお話します。
▼ 前回のお話はこちら ▼
無私や無我という考え方について
哲学やスピリチュアル、精神世界のジャンルを通して形而上を学んでいくと、かならずと言っていいほど「無私」や「無我」という概念が出てきます。
「無私」や「無我」とは、宇宙は一つの大きな「存在」なるものがあって、自我を持っている私たちの本当の正体はその存在そのものであるため、自我としての私は幻想だ、といったような考え方です。
形而上学はつねに存在からの視点で宇宙を語るため、その位置から自我を捉えた場合、「自我は存在がこの世界を見るための一つの目である」「存在がこの世界で活動するための一つの場である」というような表現がされます。
その概念が時代に合わせて形を変えることによって、よりポップ化し、「自我は存在にとっての一キャラクターである」という表現が、一般の方のスピリチュアル世界への興味を集めているようです。
これが、今現在の存在論の姿だと考えます。
自我の解体は必要か?
上述したように、形而上学は存在の視点から宇宙を語ることがメインになるため、「”私”など幻想なのだから、自我は解体しなくてはならない」といった印象を強く与えているところがあると感じます。
たぶん、ほとんどの方がその教えにあまり疑問を持つことはなかったと思います。
なぜなら、自我の世界を超えた形而上の世界は、自我にとっては知りようのない世界だからこそ、私たちはその教えをそのまま受けとるしかないというのは当然のことでしょう。
しかし、私はここで気がついたのです、あたりまえなことに……。
「自我は解体どころか、自我は絶対必要でしょう!」と。
自分自身と向き合う日々の中で、私は自我が愛おしく感じるようになりました。
ヌーソロジーを学ぶことで、自己と他者、男性性と女性性、精神と自我の双子化が意識進化にとって必要だということも知りました。
ということは、自我に対する愛おしいという感情は、間違いなく進化の方向性を向いている。
しかし、待てよ。これまでの形而上的教えを改めて考察してみると、あれら教えは何なのか?
そんな感じで、私はヌーソロジーがいう意識進化の方向性と、既存の存在論を比較して考えてみました。
すると、答えはこれまたシンプルだったということに気がつきました。
ヌーソロジーと既存の存在論との違い
話はとってもシンプルです。
これまでの形而上的教えは、いま「ある」存在の姿をそのまま語ったものだということ。
しかしそれは、ヌーソロジー的世界観で表現するならば、自己と他者が双子化されることで起こる霊的受精や霊的受胎以前の存在の姿だということ。
ヌーソロジーやシュタイナーの教えでは、私たち人間は「霊的個体化」を目指していると言われています。
霊的個体化を達成するためには、その前に、霊的受精と霊的受胎が起こらなければならない。
これは私の考えですが、1979年から始まった最終構成は宇宙にとっての排卵期だと考えています。
だから今の時代に「数打ちゃ当たる!!」という宇宙的妊活シーズン到来によって、ヌーソロジーの関心が世の中に一気に広まったり、スピリチュアルにも人気が出ていると考えます(笑)
つまりは、既存の存在論自体は意識進化するために欠かせないものではあるけれど、その論だけが絶対ではないということ。
既存の存在論は、これまでの時代の存在のあり方を語ったもの。
しかし、2013年から宇宙は反転を始めたので、存在論自体も内容を更新していかなければならないと考えます。
既存の存在論はあくまでも意識進化にとって重要な知識であって、これからの時代に必要な存在論は、精神と自我を双子化させた霊的個体化としての存在(もしくはそれを実現するための具体策)を語っていかなければならないと考えます。
「自我の解体」という言葉の本当の意味は、現実に執着して凝り固まった自我を「純粋自我」に昇華させることを言うのでしょう。
「自我の克服」とも言いますね。
決して自我存在そのものの消滅を意味するものではないので、ここは十分に気をつけなければいけないところです。
前回のお話にも繋がってくることですが、「”私”など幻想」「”私”などいない」ゆえに「自分がいつ死んだって構わない」と豪語している人をたまに見かけますが、私としてはそういった人たちのことを「形而上かぶれ」と呼んでいます。
既存の存在論こそ絶対だと信じ込み、その世界にかぶれてしまった人たち。
2013年以前まではそれで良かったかもしれませんが、でも、あたりまえに考えて、「自我って本当に必要ないのか?」と疑問に思わなかったのかしら…と私は思ってしまいます。
あたりまえに考えたら、自我がある、肉体がある、名前がある、それらは「必要だから」あるのではないでしょうか。
形而上かぶれの人たちは、現実という大地に根をおろさない「根無し草」のような状態になっています。
もういい加減、現実という大地に根をおろして、しっかり根を張って、真正面から現実と向き合っていきましょうよ、と私は言いたい。
現実との向き合いから、精神と自我の双子化が始まるのです。
既存の存在論情報を更新していきましょう。
まとめ
自我、肉体、名前を持っていること、このあたりまえなことは、じつはとてつもなく奥深いものをはらんでいて、今現在私もこれからの自我の姿を語ることができません。
なぜなら、2013年から始まった覚醒期という時代は、ようやくやってきた進化の時代であり、進化とは結局何なのかということを明確に語ることはまだまだできないからです。
そのため、既存の存在論を参考にしつつ、しかし、そればかりを絶対としないで、自分が感じている自我の存在も感じとりながら、存在と自我、精神と自我の双子化の方法を模索していく必要があると思います。
存在論がこれまでの定説であるならば、私は自我論を普及させていきたい。
もちろん、この自我論はエゴまみれの低次自我のことではなく、純粋自我としての高次自我論です。
存在論と自我論の両輪で進めていけば、真に目指すべき進化の方向性を明確に提示できると考えたからです。
そうでないと、いつまでも根無し草状態で、種を植えることができない、霊的受精が起こらない……。
これまで自我は、あたりまえすぎて、ほとんど注目されることがありませんでした。
ですが、あたりまえなことに「これはあたりまえじゃなかった!」と気づくことが無意識の顕在化に繋がると私は思っているので、自我をとことん掘り下げていきたいと考えています。
存在はそのすべてを言葉で語ることはできない、と言われています。
では逆に、自我のすべてを私たちは語っているか、というとそうではないと思います。
自我も存在同様、まだまだ語られていないことが山ほどあると思います。
これを語っていくことが、2039年までに必要なことだと考えています。
ラックライフ/名前を呼ぶよ
「”私”などいない」「”私”は幻想だ」、そんなこと言わないでください。
なぜ私たちには「名前」がついているのですか。
みなさんは、その「名前」は何を指しているのか、何をモノ語っていると思いますか。
「いなくてもいいか」
一人呟いて空を見上げてた
風に紛れて
どこからか聞こえた
僕の名前
僕が僕でいれるように貰ったモノ
ラックライフ/名前を呼ぶよ
「名前」は、この世に生まれでたときに貰った最初で最高の「プレゼント」です。
そのことから感じ取れることを、じっくり思考してみてくださいね。
次回もお楽しみに♪
コメント
私の説としてはブーム、ムーブメントというのは大衆意識を進化させるために段階を追ってどこかから送られてきている
透視→スプーン曲げ→ヒッピー文化→オーラの泉→引き寄せの法則→アセンション→ノンデュアリティ
例えばオーラの泉が出る前はオーラなんて言葉は日本人のごく一部のマニアしか使って無かった
しかし今では概念自体が伝わる
引き寄せも然り
一部の先行者がそれを追求して、ある時にそれがドカンと広まって大衆の意識を変える
そのようなサイクルが起きているように思う
またあまりにもレベルが乖離しすぎている状態で次の教えを説いても絶対に根付かない
オーラも引き寄せも聞いたことない人に色々な意識状態の話をしてもちんぷんかんぷんだと思う
今の瞑想だのマインドフルネス、覚醒などもヒッピーブームの時に精神世界に触れた人たちが色々と講師になったりして世界に広めたのが源流になってるそうなので
また今のノンデュアリティなどが根付くことで新たな何かが生み出されるきっかけになるのかも
ハルさん
コメントありがとうございます。
そうですね、おっしゃるとおりだと思います。
道がなければ歩けないように、意識進化にも道が必要だと考えます。
その道の途中にはかならず駅や宿泊施設があるわけで、意識進化も同じくどこかに停まりながら、そこで休んだり何かを得たりしながら、また歩みを進めていくのだと思います。
ノンデュアリティも何かを生み出しているかもしれないですね。
この記事で書いた自我論もあくまでも一つの経由地だと考えています。