
私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は前回の続きで、光自身が見ている「前」という方向性についてのお話です。
この記事の内容はψ3~4の学習になります。

以下の解説は、本家ヌーソロジーの内容を私流に解釈したものです。本家ヌーソロジーの解説とは異なりますので、ご理解のほどよろしくお願いします。
前回のおさらい
前回のおさらいです。
それなのに、光を観測すると秒速約30万kmという速さが計測できます。

その矛盾を解決するポイントは、
光自身が見ている「前」という方向性に隠されている
そんなお話でした。
前は奥行き
私たちの「前」という方向性。
それは上下、左右どちらでもない、何か特別な方向性のようです。
この「前」とは、空間をxyzで表したとき、「z軸」に該当するもので、
奥行き方向
になります。

この「前」「奥行き」という方向性は、私たちの「見る」という行為そのものなので、主観的に見ている視線ということで、「主観線」になります。
そして上下、左右の方向性は、自分の視線からはじまるものではなく、「モノとモノ」「他者とモノ」というように客観的な視線になるため、「客観線」になります。

主観線としての「前」という世界は、距離を持たない光自身が見ている世界です。
半田さんはその世界を、このように表現します。

純粋な目の前の世界は、視野空間上でペタンと面に潰され、薄い皮膜のようなものとして存在させられている。
時空は薄い皮膜のような世界
上下、左右の幅のある世界で見ると、時空というものは、連続することで時間が流れる性質があります。
しかし、主観線である光自身が見る世界は、「距離を持たない」という性質があるため、連続する時空がある意味、ペタンと潰された状態だと表現することができます。
そのため、「前」という方向性は薄い皮膜の中に、空間的距離も、時間の経過もすべて内包されていることになります。

その薄い皮膜の世界には、自分がこの世に生を受けたときだけでなく、宇宙が生まれた約138億年の歴史さえも、この奥行きという「空間の深み」の中に永遠として息づいています。

奥行き方向においては、「今、ここ」と、宇宙のはじまりである場所は、「同じもの」として考える必要がある。
そう半田さんはおっしゃっています。
光は主体そのもの
目の前で、無限小の厚みにまで圧縮された時空。
アインシュタインが言ったあの言葉。

無限大の速度としての役割を演じている光。
それは、今まさに、私たちの「前」という方向性において出現している光そのもののことなのです。
ヌーソロジーでは、

永遠が息づくその場所こそが、時間の流れ自体を感じ取っている「本当の主体」の位置である
と言います。
本当の主体とは、「見ているもの」でも「見られるもの」でもなく、
見ることそのもの
つまり、
光
だということになります。
時空内を突っ走る光の正体とは?
ちなみに、実験で計測された「空間内を突っ走る光」の正体について。
その光は、観測者に目撃されるという一つ高次の出来事によって、「光の中の光」へと相転移させられたものだそうです。
「空間内を突っ走る光」は客観線の世界のことなので、本当は主観線からは「見えない世界」なのです。
ですが、それが一つ高次の観測行為によって、「見えない世界」から「見える光」となって出現しているそうです。

以上のことから、これら二つの矛盾する光速度を存在させるためには、空間内に一つの次元だけでは不可能であり、
一つの空間には「二つの次元」が重なって存在している
ということになります。
ロンギヌスの槍が暗示すること
私たちの本当の姿は「光」です。
その光から見える奥行きの世界は、永遠が息づく世界。
半田さんはこのことに人間の意識が気づいたとき、

すべての人間は創造の開始者、つまりアルケー(始源)としてのイエス・キリストへと変身するだろう。
と言います。
光の身体であるイエスの脇腹に刺さったロンギヌスの槍。
それはまさしく「奥行き」を指している…。


あなたはこの話を信じられますか?
まとめ
私たちはまだ、「身体=わたし」という自我意識が強いので、その世界を目にすることができずにいます。
空間に対する感受性が大きく欠落しています。
ここには先程ご紹介した、主観線と客観線が大きく関わっています。
ヌーソロジーでは正しい空間認識を通して客観線から抜けだし、光としての本当の「わたし」を見つけ出していきます。
というわけで、次回はその二つの次元がどのように存在しているのかについてお話したいと思います。
次回もお楽しみに♪


