私の宇宙からこんにちは、natanです。
今回は、共同体意識から個我への変遷についてのお話です。
▼ 前回までのお話 ▼
名付けの変遷
もっと庶民レベルでいうと、個人の名前が尊重されてきたのはわりと近代で、昔の農村の子供たちって「太郎、二郎、三郎…」みたいな番号に由来する名前を付けられることがあったんですよね。
Ricardoさん:その時代における農村の個々人の自我意識は、あまり強くなかったのかもしれません。
ようするに、一人ひとりが「俺が、俺が!」というよりは、どちらかというと村全体で一体となるような意識が働いていたとすると、村八分のような行為があったことは理解できるかなと。
村全体が一つの意識体だとすると、その村のルールに反するものや、外から来る異分子?に対しては、生命の維持活動と同じように、免疫機能が働いて異物を排除しようとする行為があっただろうことは理解できます。
排除される側はたまったもんじゃなかったでしょうけど。
Ricardoさん:そういった時代を経て、個人に名前が付けられていくようになることで、今度は一人ひとりの意識感が強くなっていったじゃんないかなと思ってます。
家族名が付けられ、個人名が付けられた時代を調べたことがあって…そう古い時代じゃないんですよね、個人名って。
個人名が付けられて個人が尊重されるようになるのは西洋の方が早く到来していて、それが日本にも明治あたりに西洋文化の一つとして取り込まれていくんですよね。
日本ではそれまで個が尊重されない時代で、「私のために」ではなく「お家のために」「藩のために」という思想が強い印象ですよね。
それが明治以降は「わたしはどうしたいか」「あなたはどうしたいか」という考えに変わってきたそうです。
個人がより尊重される時代以前の自我とは、環世界とその中で捉えられる世界観が学童期のそれに近いものがあったんじゃないかなと思うんです。
子供の自我成長と人間の自我成長の同期について
学童期の意識レベルは「私が!私が!」というよりは「みんな一緒」というような思考をするケースが多いんですよね。
Ricardoさん:うちの子供なんかも、「自分がこれ好き」というより「あの子が好きだから私も好きになった」ということがあって。
魔法少女のアニメシリーズも、全然テレビを見ていないのに友達が好きだと言いはじめた瞬間に「私これ大好き」って言い出すんですけど、親からすると「一回も見てないよね」って思うんですけど(笑)
友達と一緒になって好きになっちゃうんですよ。
あ~わかるわかる(笑)
Ricardoさん:だから、共同体や連帯感がより強いんじゃないかなと。
大人でいう一体感ではなく、気持ちが一緒になってるんですよね、子供って。
こういう心理状態が江戸時代以前にはベースにあって、明治以降に西洋の思想がどんどん入ってくることによって、個を重視する思想になってきたんだと思います。
そうか。自我の成長も子供の成長期に照らし合わせてみればいいんだ!ここでもフラクタル構造が!!
Ricardoさん:子供の成長の段階と、その時代における人間自我の成長は同期していると春井星乃さんも書籍『奥行きの子供たち』の中でおっしゃっているんですよね。
Ricardoさん:江戸時代以前の幼少期や学童期のような精神状態から、明治、大正、昭和と経てきて、青少年期のような精神状態に変わっていったんだと思います。
とくに昭和の時代は、私が個人的に捉えているイメージとしては中高生っぽいんですよね(笑)
何かのこだわり方や、何かに突入していくエネルギーとかは中高生に似たイメージがあるんですよね。
わかる!(笑)その中高生たちが昭和の時代を築いたということですね。
Ricardoさん:もちろん、もちろん。それがなかったら今の時代はないので。
じゃあ、今の時代は高校生からその先に自我が成長したかといわれてもまだ分からないですが。
もしかしたらまだ高校生かもしれないし(笑)
ちょっとは大人になったような気はするんですが、まだですかね?(笑)
そういう気になっているだけかもしれない(笑)
あははは!あ~こうやって見ると面白いですね。自我における成長期の過程。
より超自我が各国で強くなってきて、超自我同士がぶつかっているようなところは高校生のケンカっぽくなっているような気がしないわけでもない(笑)
たしかに、なるほど(笑)
漫画や映画で見る自我意識の捉え方の変遷
以前お話していただいた空間の捉え方の変遷のところで、漫画についてお話がありましたが、人間自我の成長という観点からみた場合、漫画にもそういった変化は描かれているのでしょうか?
Ricardoさん:2000年頃までのアメコミは、日本でいうところの「勧善懲悪」で超自我の世界なんです。
ヒーローはヒーローでしかなくて、悪の事情は配慮せず、正義が悪をさばくというものです。
Ricardoさん:ですが、2000年代頃からヒーローにも悪の面があったり、悪にもいろいろ事情があるという作品が増えてきたんですよね。
だから、悩めるヒーロー像などの作品がいろいろ出てきたり、クリストファー・ノーラン監督の映画『バットマン』などは悲劇のヒーローなんです。
悲しい背景を背負いながら、つねに苦悩して戦うんです。
「勧善懲悪」のイメージからだいぶ離れていますよね。
Ricardoさん:同監督の『スーパーマン』や、その他の映画でいえばサム・ライミ監督の『スパイダーマン』シリーズもそうですよね。
バッドマンの悪役のジョーカーを主役にした映画『ジョーカー』なども代表的ですが、悪役にも事情があって、好きで悪役になったわけではないし、個人の悲しい時代背景があって、社会の悪を全て背負ったような暗い過去を踏まえて、その現れとしての悪役になってしまっているという作品の描き方が増えたんですよね。
時代によって漫画や映画の描き方も変わってきて、それを受け入れる人の意識も変わってきているからこそ、そういう描き方が許されて受け入れられるんですよね。
それは広く人間の意識状態が変わっていているからだと思うんです。
一意的に「善は善」「悪は悪」というものの見方しかしないような意識から、「善の中にも悪がある」「悪の中にも善がある」「それらには背景がある」といったところを捉えられるようになっていくんですよね。
ステレオタイプでは通用しない時代になったということですね。
Ricardoさん:そうです、そうです。人間の成長の中でもそうじゃないですか。
中学生くらいまでの男の子なんかはとくに顕著ですけど、頭の中は勧善懲悪で、ヒーローに憧れたりするんですよ。
でも、高校生くらいになると「あれ?全てが正しいわけでもないのかも」と意識が働き出すんですよね。
なので、もしかしたら今の時代はちょっと高校生っぽいのかなと(笑)
あはははは(笑)
私のイメージでいうとそうだけど、もちろんSDGs(エスディージーズ)のような持続可能な開発目標が定められたり、いろいろ世界を良くしようとするもっと上位の意識の作用というものも当然働いているので、一概には言えないにしても、一方では超自我が強くなってきている国が出てきているあたりも踏まえると、トータル的には高校生っぽいイメージで思っています。
次回につづく…
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