私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、前回お話した「偶数側の空間を満たす」ことについて、一つ実例をあげながら詳しくお話していきたいと思います。
嫌いな人について
前回お話した「偶数側の空間を満たす」という件について、今日は「嫌いな人」をテーマにお話していきます。
心のお勉強をしている方や、スピリチュアルの知識を学んでいる方にとって、「人を嫌う=やってはいけないこと」という、ラベルが貼られていると思います。
私の結論としては、
嫌いなら嫌っていい!と思っています。
そもそも人を嫌ってはいけないという考えは、「良い人になろう」「悟りを開いた人になろう」「覚醒者とはこうあるべき」という観念があるのではないでしょうか?
シュタイナー思想でも、人間は「自我独立性」と「自他同一性」をあわせ持つ存在へ進化することを目指しているといいます。
人を嫌っていたら、いつまでたっても「自他同一性」は達成できないと思ってしまいますよね。
嫌いな人は嫌っていい
で・も・ね!
それでも私は言いますよ。
嫌いなら嫌ってしまえホトトギス!
そう言いきる理由は、私自身も散々人を嫌ってきたからです。
「人を嫌う」レベルではないですね。
恨みました、憎みました。
人生の中でこれでもかっ!というくらい、人を恨み、憎んだ経験を持っています。
ちょうどそのころは、人生どん底の時期で、スピリチュアルの世界に足を踏みいれたばかりでした。
スピリチュアルでは、「人を許しなさい」という教えが至るところに書かれていました。
ですが、私はその教えに猛反発しました。
許すことなんてできなかったからです。
だからひたすら恨み憎みつづけた日々がありました。
この記事、面白いのでぜひ読んでみてください(笑)
怒りのエネルギーに自分自身がやられる
そして、ある日気づいたのです。
なんだか私、疲弊してる…。
恨み憎しみつづけていると、自分の膨大なエネルギーに、自分自身がやられていることに気づいたのです。
恨みのエネルギーは外に放出されるというより、自分自身がずっと持ちつづけて、自分が常時そのエネルギーに浸ることになるので、結果的に自分自身がやられてしまうと気づいたんです。
そこにきて、ようやく思いました。
あーダメだこりゃ。私が私のエネルギーにやられてる!
このことに気づいたからこそ、ようやく「許そう」という気持ちに至ったのです。
相手のためではなく、自分のために。
自分のために許したら、自然と相手のことも許せるようになったんです。
嫌いという気持ちを素直に認める
その一件を乗り越えた後、私は他に嫌いな人ができたときは、このように対処しています。
まずは、嫌いという気持ちを素直に認めるようにしています。
嫌いという感情を体に溜め込まないために、素直に気持ちを認めます。
すると自然と、
私はどうしてこの人が嫌いなんだろう?
と自己意識に立ち返るのです。
自己意識に立ち返ることによって、目の前の現象ではなく、自分が過去に負った心の傷が見えてくるのです。
その傷を癒やすことが、私にとって何よりも大切なことです。
その傷を癒やしつつ、
ではどうすればこの人を嫌わずに済むだろう?
と思考を働かせます。
そうやって私は自分の内側に意識を向けつつ、他者にも意識を向けて、相手の嫌いな要素を一つずつとり除くように努力しています。
偶数側を限界ギリギリまで体験すること
この話を聞くと、
結局natanだって相手を嫌ってないじゃん!
いい人になろうとしてるじゃん!
と思われるかもしれませんが、先ほどもお話したように、私は「人を嫌う」を超えて、人を恨み、憎んだ経験があるんです。
その経験を思いっきり体験したからこそ、
あー!人を嫌うのはもうこりごりだ!卒業するときだ!
と心底思えるようになったのです。
私は何度も「偶数空間(現実世界)を思いっきり体験してください」とお話してきました。
そうお伝えする理由は、限界ギリギリまで行って、「これはもう卒業だ!」と思える意識状態が意識反転にとってとても重要だと思っているからです。
ですので、中途半端に「人を嫌っていはいけない」と自分を戒めるのは、本当の意味で他者と本気で向き合っていないと私は思うのです。
私の考えでは、他者と本気で向き合うこととは、表面的な部分で向き合うのではなく
精神で向き合うこと
だと思っています。
人間の本能として、どうしても最初は受動的に「快・不快」「共感・反感」が生じてきます。
それをコントロールすることはできないので、まずはそれを素直に認めて感じきる。
そして、自己意識に立ち返ったときに、本格的に「心」で他者と向き合うのです。
「嫌い」という感情を超えた先で、他者と向き合うんです。
心で向き合った結果、表面上出す答えは「好き」でも「嫌い」でもどちらでもいいです。
自己内観もして、現実的に考えて、
やはりこの人とは距離を置かなければいけない。
という判断も当たり前にあるからです。
自分にとって大切なことは、
他者としっかり向き合えたかどうか
これが大事だと思っています。
精神で向き合った他者とは、「好き」「嫌い」を超えた領域で、深いつながりができると感じています。
「嫌う」ことさえも中途半端な私たち
他者と向き合う勇気がないために、「人を嫌っていはいけない」という教えを守るのはナンセンスだと感じます。
嫌うなら、とことん嫌えばいい。
人間は嫌うことさえも100%のエネルギーを出して嫌っていないと感じています。
中途半端なんです、低次自我さんは。
トコトン人を嫌いつつ、そのときの自分をよくよ~く観察してみてください。
自分を観察しつつ、人を嫌うという感情に、真正面から向き合ってみてください。
受動的に感じるのではなく、「意識的」に感じてみてください。
それをくり返して、いよいよ「卒業だ!」というときがやってくると思います。
そのときにようやく、意識反転の準備が整うと私は思っています。
まとめ
とことん嫌ってください。
そして、かならず自分自身も観察してください。
外と内、両方に意識を向けることが大切です。
良い人になろうとしても、なれないのが人間です。
なので、いい意味で諦めましょう♪
自然と卒業しようと思えるときまで、思いっきり偶数空間を体験してください。
それが意識反転への近道だと私は思います。
次回もお楽しみに♪
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