私の宇宙からこんにちは、natanです。
つれづれなるままに、あたりまえなことを綴っていくシリーズ。
今回は、よくよく考えると奥深い、「命」について考察してみたいと思います。
あたりまえなことに驚くこと
哲学は、あたりまえなことを「これはあたりまえじゃなかった!」と気づくことから始まります。
ニュートンは、リンゴが木から落ちる様子を見て、重力を発見しました。
誰もリンゴが上から下に落ちるということを気にもとめていないのに、彼は誰も気にしなかったことがどうしてもあたりまえに見えなかったのです。
以下は私の考えですが、ヌーソロジーの意識の顕在化も同じく、あたりまえなことを「あたりまえじゃなかった!」と気づくことから始まると思います。
「気づく」というより、「驚く」と言ったほうがいいかもしれません。
あたりまえなこととは、言い換えれば、いろんなものがあたりまえの形をもって無意識化しているということでもあります。
私たちが生きるこのあたりまえな世界から、どれだけ「あたりまえじゃなかった!」を発見できるか。
その驚きが哲学思考の始まりであり、意識の顕在化の始まりでもあると考えます。
今回から、つれづれなるままに、あたりまえなことを今までとは別の角度から語ることで、気づきのヒントという種をみなさんの思考に蒔いていきたいと思います。
命は誰のものか
ときどき周りの人から聞く言葉に、こういった内容のものがあります。
私の命なのだから、私が命をどう扱おうが、私の勝手でしょ!
僕の人生なのだから、いつ死んだって構わない。
私たちは、あたりまえに、「私の命」という観点で命を捉えています。
もちろん、私もかつてはそう思っていました。
しかし、ヌーソロジーを通して反転や観察子の凝縮化を学ぶと、「私の命」という捉え方は違うのではなかろうか、という考えに至りました。
「一即多」という考え方
ヌーソロジーの観察子における偶数(時空)側と奇数(精神)側を端的に表現すると、「一即多」だと言えます。
そして命は、精神側に位置するものです。
私たちは、何も考えずに、「私の命」「私の人生」と言いますが、命は精神側に位置すると考えたとき、「私の命」という表現がどうもおかしいことに気づきます。
それでは、命とは一体誰のものなのでしょうか?
あえて「命は誰のものか」と問うならば、私の結論はこうです。
命は人類そのものである。
ヌーソロジーの構造で考えると、すごくシンプルな話なのですが、精神側は「多」の世界です。
ということは、つまり、命は「私の」ではなく「私たちの」になると考えます。
ここで、面白い絵本『いのちのまつり「ヌチヌグスージ」』をご紹介します。
島にはじめてやってきたコウちゃんが、島の人たちが行っている先祖礼拝に興味を持ち、島のオバアにいのちについて教えてもらうという内容です。
オバアは「いのちをくれた人をご先祖さまと言うんだよ」と教えてくれました。
コウちゃんは「お父さん、お母さんって、ぼくのご先祖さまなの?」と驚きますが、オバアは「おじいちゃん、おばあちゃんもご先祖さまだし、さらにその二人にいのちをくれた人もいるさぁ~ね」とコウちゃんに教えます。
いのちはどんどん増えていきます。
「ご先祖さまは100万人くらい?」と言うコウちゃんに対して、オバアはこう言います。
「どうだろうねぇ~。ずっとずっと宇宙のはじまりから、いのちはつづいてきたからねぇ~。オバアにわかるのは、数えきれないご先祖さまが誰ひとり欠けても、ぼうやは生まれてこなかった、ということさぁ~。だから、ぼうやのいのちは、ご先祖さまのいのちでもあるわけさぁ~ね」
この絵本にはわかりやすく、いのちにおける「一即多」の内容が書かれています。
この絵本は中古で買ったので、ところどころ破れたりしているのですが、小さい子どもたちがこの絵本を通していのちについて真剣に学んだのだろうと思いを巡らせてみると、破れも愛おしいものに感じられますね。
「命=ご先祖さま」という考え方
絵本の中で、オバアが言ったこの言葉。
「オバアにわかるのは、数えきれないご先祖さまが誰ひとり欠けても、ぼうやは生まれてこなかった、ということさぁ~。だから、ぼうやのいのちは、ご先祖さまのいのちでもあるわけさぁ~ね」 と。
上記をヌーソロジー的に考察してみると、下記のような見方ができると考えます。
観察子構造は上位から下位へ凝縮化する仕組みを持っているので、命は「これは100年前のAさんの命」「あっちは1300年前のBさんの命」という形で分けられるものではなく、凝縮化によって命が濃縮され、それが最終的に時空に出現したものが「私」になると考えます。
絵本では「ご先祖さま」と表現されていますが、凝縮化の仕組みを考えると、命は「非人称」になります。
もともと精神側は非人称の世界です。
しかし私は、この「ご先祖さま」という表現はとても素晴らしいものだなと感じています。
哲学をはじめ、スピリチュアルや精神世界では、一つの大きな「存在」なるものがいて、私たち人間一人ひとりはその存在の目である、といったようなことが言われます。
しかし、命を「存在」とだけ表現すると、今現在、この時代に生きる人々にどうも命の質が十分に伝わらないような気がしてならないのです。
命をご先祖さまとして捉えた場合、今この時代に生きる私たちは、そのご先祖さまのすべてを凝縮化して持つことで人類の代表として生を受けている、と感じることができます。
すると、「なぜこの時代に私は生まれたのか」「私のやるべきことは何なのか」「私はどう生きるべきなのか」といったように、生きることについて自覚的になれると思うのです。
その自覚が生まれると、「私の命なのだから、いつ死んだって構わない」という思考になりようがないことに気づかされます。
なぜなら、命は「私」のものではなく「私たち」のものだから。
言葉とは、その人の考えをそっくりそのまま言い表す「鏡」のようなものです。
「私の命なのだから、いつ死んだって構わない」という言葉は、命の捉え方そのものが間違っているという証拠でもあると考えます。
まとめ
私がつねづね思うことは、哲学をはじめ、スピリチュアルや精神世界を学んでいる人であっても、命の質や重さを十分に考えてはいないと感じます。
命に対する考え方が軽いからこそ、日本だけでなく世界中でも人々の分断が起こり、自分さえよければいいという考えが横行しているように感じます。
多くの現代人の思考に「他者性」が欠けています。
その他者性を復活させるために、まずは命の捉え方から変えなければいけないと感じます。
命の重さ、そしてその大切さを、絵本から教わりました。
みなさんの気づきのヒントの一つになったら嬉しいです。
次回もお楽しみに♪
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