私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は感性派ヌーシストならではの、不思議な意識体験を観察子構造を用いて、読み解いてみたいと思います。
不思議な意識体験してみて思うこと
今日のお話は、あくまでも私個人が体験したことや、私が周りから聞いた体験談を、観察子構造を用いて、どういう意味を持つ体験なのか、読み解いてみるという内容のものです。
感性派ヌーシストならではの内容なので、あくまでも私の仮説として、オモシロ楽しく読んでいただければと思います。
私は以前もお話しましたが、不思議な意識体験をしたことがあります。
当サイトでは記事にしていませんが、空間に拡散した自分の意識がふり返ったときに、自分の自我が幽霊のように立っていたという実体験もあります(笑)
私の周りでも、意識が拡散した経験や、ある日自分の意識がなくなり、意識も記憶もないにも関わらず、その間普通に日常生活を送っていたと家族から聞いたなど、不思議体験を聞いたことが多々あります。
こういった体験をすると、よく感じるのは、「怖い」「私が私じゃなくなる」といった恐怖で、さらに現実世界に意識が戻ってきても、フワフワしていたり、地に足がつかない状態になってしまうんです。
精神疾患にも似たような状態です。
意識顕在化とは違う
それとは逆に、私はψ3とψ5を身を持って体験した経験があるのですが、そのときはまるで様子が違いました。
意識はしっかり「ここ」にあり、地に足はつき、「私」という意識もまったく失われることはないんです。
空間全体から感じる生命感、自分がお母さんのお腹の中にいるような温かさと嬉しさと安心感、何よりも感謝と感動で心がいっぱいになるんです。
そうした二つの体験をしてみて、「この違いは何なんだろう?」と考えてみても答えがわからず、以前の私のヌーソロジー解説では、意識変化が起こったことをすべてひとまとめにして、「顕在化」として解説してしまっていた時期がありました。
しかし、前回の記事でご紹介した「ミックスツイン構造」を考案してから、再度その意識体験を考察してみたところ、一つの仮説が浮上してきたのです。
【仮説】他者側の偶数系観察子の体験
仮説として結論からお話すると、意識体験の中で「怖い」「私が私じゃなくなる」といった体験は、他者側の偶数系観察子の領域に意識が出ていったものだと考えました。
つまり、人間型ゲシュタルトの意識を構成している無意識側の領域に、意識が出ていってしまったのかもしれないという仮説です。
自分が消えてなくなってしまう感覚を考えてみると、他者によって構築された人間型ゲシュタルトの自我意識は、本当の意味において、まだ自己を確立できておらず、その確立できていない状態が、無意識領域でハッキリと自覚されたのかもしれないと考えました。
なんだか小難しく話してしまいましたが、その世界に意識が出ていくと、自分を失ってしまう感覚だけでなく、そこには自分以外誰もいないんです。
とても寂しい、気がおかしくなってしまう領域だと感じています。
その点、自己側の観察子を体験したときの違いを考えると、この仮説は自分の中では納得できるものになっています。
自己側の観察子にはカギがかかっている
シュタイナーはこう言います。
成熟した魂を持たないと、高次存在から宇宙の参入自体を拒まれる。
意識顕在化についていろいろ考えてみると、これから顕在化を目指す自己側の観察子は、もしかしたらカギが掛かっているのではないだろうかと思うのです。
意識変化を意図的に起こし、いろんな次元を見てきたという人もいらっしゃいますが、そういった方に限って、現実世界に馴染めず、たいへん苦しい日常を送っている方が多いように思います。
しかし、意識顕在化とまではいかなくても、少しずつ自己側の観察子を感じ取れるようになってくると、この現実世界の捉え方も大きく変わり、本当に素晴らしい世界だと認識するようになると思うんです。
ヌーソロジーでいう「前」の捉え方が180度反転します。
なので、意識の顕在化はどういった状態のことを指すのか、私の体験も例外なく、しっかり見極めていかなければいけないと思っています。
まとめ
私自身もつねに意識が顕在化しているわけではなく、いつ人間型ゲシュタルトの意識に戻ってもおかしくない状態です。
今の時代は、意識の移行がはじまったばかりですし、常態的に意識が顕在化するのは不可能だと考えています。
なので、私は自己側の観察子を体験したからといっても、それにおごらず、地道に意識改革と魂浄化に励む努力しています。
それでも、いつものようにこの現実を見ていますが、その捉え方だけはハッキリ変わり、その意識で現実を見ているので、私はこれだけで大満足です♪
今日のお話はあくまでも私の仮説ですので、都市伝説的な雰囲気で捉えていただければと思います(笑)
次回もお楽しみに♪
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