私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は前回のお話をベースに、私たち人間の誤った空間認識についてお話したいと思います。
◎前回までのお話はこちら↓
▼ 参考文献 ▼
モノの内部は見えない空間
OCOTはこう言います。
人間の意識はモノの内部に落ち込んでいます。
「モノの内部空間」であるψ1~2の領域は、本来私たち人間には
見えない空間(のはず)
なんです。
リンゴを半分に切って、
ほら、モノの中は見られるよ!
なんて言いたくなるのですが。
リンゴを半分に切って見える断面は、すでにモノの内部ではなく、「表面」になってしまっているのです。
どんなに細かく切ってもそれは同じこと。
なので、モノの内部空間とはけっして私たちには見えない世界なのです。
触覚の役割
その見えない世界と同じ次元に位置する知覚行為が、私たちの「触る」という行為です。
触ることでモノの大きさや、かさばりを感じます。
リンゴを手のひらで包んだとき、手の力はリンゴの中心へ向かいます。
しかし、ψ1~2の領域は「モノの内部空間」のため、モノの外部空間が存在していないのと同様に、触覚もモノの外部空間を認識することはできません。
あくまでも触覚は、モノの内部性を感じとっているのです。
そういった意味でも
ψ1~2:モノの内部空間=触覚の次元
という関係性が成り立つと考えられます。
「見えない」のに「見えている」という矛盾
そして、私たちは普通にこういう会話をしますよね。
リンゴの直径は10cmある。
北海道から沖縄まで約3,500kmある。
○○銀河まで100万光年かかる。
この空間認識はψ1~2である「モノの内部空間」から派生している考え方です。
しかし、くり返しになりますが、
モノの内部空間は「見えない」空間です。
触ってモノを認識するだけの次元です。
そして上記の会話は「見えている世界」のことを話していますよね?
「見えている世界」とはヌーソロジーの次元観でいうと、
ψ3~4:視覚の次元
になります。
もう触ってなんかいませんよね?
それは「見て」いますよね?
「触覚」と「視覚」は本当は次元が違うんです。
触覚と視覚は分けて捉えていく
ここで重要なのは、以前お話したように「視覚の次元は”見る”という行為のみで捉えていく」ということ。
知覚器官はそれぞれ次元が異なるため、視覚以外の感覚は判断を保留(エポケー)します。
ψ3~4の見ている世界に触覚を持ち込んでしまうと、それは「モノの外部空間」ではなく「モノの内部空間」になってしまい、次元が一つ下がってしまいます。
それによって、正しい次元認識ができなくなってしまうのです。
モノの内部性を見えている世界に持ち込んでいる
これは今後詳しくお話していきますが、純粋に見えている世界とは、
射影空間
なんです。
わかりやすく表現すると、スクリーンに世界が映しだされているようなものです。
なので、本当は見えている世界に奥行きはないのです。
ですが、私たちはそこに奥行きを持たせて、
あの駅からあの駅まで何分かかる
といったような会話をします。
それはつまり、
モノの内部性を「見ている世界」にまで広げて空間を認識しているから
なんです。
モノの内部空間は見えない世界なのに、手のひらで感じたかさばりを、そのまま見ている世界にも適応させてしまっているんです。
この誤った空間認識によって私たちは、
宇宙という「空間」にスッポリ覆われている。
という錯覚を抱いているのです。
「覆われている」「包み込まれている」というイメージは、視覚とはまったく関係のないものであり、それは視覚ではなく触覚から派生しているイメージになります。
これがOCOTの言う、
人間の意識はモノの内部に落ち込んでいます。
という言葉の意味です。
イメージとしては、下記のような感じですね↓
そしてモノには、「モノの内面」と「モノの外面」という概念があり、
と表現します。
これは視覚を通して、観測する者が「いる or いない」という違いでもあります。
この件は、のちのちお話していきます。
まとめ
私たちはモノの内部性を、見ている世界にまで広げているため、今、目の前で見ている世界そのものを正確に把握できていないという、衝撃の事実が浮上してきます。
これを、正しい目で捉えていこうとしているのがヌーソロジーです。
それでは次回から、モノの内部空間から次元上昇して、ψ3~4の世界に入っていきたいと思います。
次回もお楽しみに♪
▼ 参考文献 ▼
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