私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、書籍『奥行きの子供たち』を参考に、ψ9~10に関係する「カシウスの槍とロンギヌスの槍」について解説したいと思います。
▼ 参考文献 ▼
はじめに
これまで、感性と思形がどのように人間の元止揚をなぞっていくのかについて、お話してきました。
そして前回のお話の最後に、思形と感性を座標で見てみると、それぞれの矢印が「槍」のように見えるとお話しました。
このことについて、ヌーソロジーでは
カシウスの槍とロンギヌスの槍
として話をしています。
今日はなぜ、思形と感性が槍にたとえられるのかについて、詳しくお話したいと思います。
カシウスの槍とロンギヌスの槍とは?
イエスがゴルゴタの丘の十字架の上で、磔刑(たっけい)にされたあの出来事。
カシウスの槍とロンギヌスの槍とは、イエスの死を確認するために、ローマ兵が脇腹をつき刺した槍のことをいいます。
なぜ槍が二つの名前を持つかというと、イエスの脇腹に槍をつき刺したローマ兵の名前が「カシウス」といいます。
そのカシウスが槍をつき刺したとき、イエスの返り血を浴びて、目がよくなったとのこと。
そのため、カシウスは改心し、洗礼を受けて、キリスト信者になったそうです。
そして、洗礼を受けた後の名前が「ロンギヌス」といいます。
空間認識における槍の違い
キリスト教の視点でいうと、カシウスの槍とロンギヌスの槍の違いは、
ということになるそうですが、ヌーソロジーから見ると、
これら二種類の槍は、そのまま空間認識の反転の象徴となっている。
と半田さんはおっしゃいます。
つまり、
として見ることができるそうです。
思形空間と感性空間の違い
思形空間(カシウスの槍)
カシウスの槍に象徴される奥行きは、他者から見た「幅」と同一視されています。
「見るもの」と「見られるもの」の間に、距離を作りだしています。
そして、他者が生みだす「幅」とは、左右軸でもあります。
左右軸は思形ψ9が生みだすものであり、思形ψ9の働きによって「時間」が流れはじめます。
その時間の流れが人間の意識に3次元空間を出現させ、現在、科学がいっているように「遠くは過去」「時間は過去から現在、未来へと流れている」という空間認識が立ち現れてきます。
そして、物質を対象として見なす意識が生みだされます。
カシウスの槍とは、まさに、
自己をつき刺している他者の視線のこと
ともいえます。
このようなイメージから、半田さんはよく、
人間は時間に串刺しにされている。
といったような表現をされます。
感性空間(ロンギヌスの槍)
そして、ロンギヌスの槍に象徴される奥行き方向は、奥行き本来のものであり、そこには幅はなく、「見るもの」と「見られるもの」の分離がありません。
主客が一体化している、つまり純粋持続の空間ということになります。
それぞれの槍の方向性が逆になることで、時空が出現するのか、純粋持続の空間が出現するのかが変わります。
日本神話が意味すること
こういった話は、半田さんが二つの空間について、たとえ話を用いてお話されているのかというと、じつはそうではないのです。
カシウスの槍とロンギヌスの槍だけでなく、日本神話にも似たような話があるのです。
それが、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)とスサノオの戦いです。
ヤマタノオロチをこれまた座標軸にして2次元平面にしてみると、下記のような4次元時空の座標軸が出現します。
このヤマタノオロチが、幅の世界を意味しています。
ヤマタノオロチ=幅
このヤマタノオロチをスサノオが退治しますが、その戦いでスサノオが使用した剣が天羽々斬(アメノハバキリ)。
天羽々斬=幅を切る
つまり、ヤマタノオロチという幅の世界を切ることで、純粋持続の空間を取りもどすという意味が、日本神話に隠されているのでは?ということです。
まとめ
私たちはどうしても、こういった話をただの神話として見てしまいますが、カシウスの槍とロンギヌスの槍、日本神話も、もしかしたら人間の進化の預言的なもの?なのかもしれませんね。
というわけで、次回も引きつづき思形に関するお話をしたいと思います。
次回もお楽しみに♪
▼ 参考文献 ▼
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