私の宇宙からこんにちは、natanです。
今日は、「意識とは何か」について、すこし難しいお話をしますので、頭をやわらかくして読んでみてください。
前回は、意識活動によって次元を上下に行ったり来たりするよというお話をしました。
なぜ意識の流動だけで、次元を行ったり来たりできるの?
と疑問に思っている方も多いと思います。
今日は、
についてお話したいと思います。
▼ 参考文献 ▼
「意識」の言葉の意味
まずは、「意識」という言葉の意味を調べてみましょう。
【1】心が知覚を有しているときの状態。「意識を取り戻す」
【2】物事や状態に気づくこと。はっきり知ること。また、気にかけること。「勝ちを意識して硬くなる」「彼女の存在を意識する」
【3】政治的、社会的関心や態度、また自覚。「意識が高い」「罪の意識」
goo辞書より
「意識」は、
心の状態/態度/自覚/気づく/知る/気にかける
私たちは「意識」単体というよりは、「意識する」という動詞として使っている場合がほとんどだと思います。
ヌーソロジーの「意識」の使い方
しかし、ヌーソロジーは違うんです。
OCOTは下記のように不思議な使い方をします。
◯◯◯とは何ですか?
○○とは、あなたがたの意識に映しだされた精神です。
意識に映しだされた…!?
OCOTは「意識」のことをまるで、映画のスクリーンのように語るのです。
さらにこんな表現もあります。
○○は、意識が持った「位置」です。
意識が位置を持つ!?
なんとも不思議な使い方ですよね。
この「意識」に関するお話は、ヌーソロジーの重要な核となる部分なんです。
ここが理解できないと、ヌーソロジーは理解できない!と断言できるくらい。
しかし、安易に語れないくらい、複雑で難しい概念なのです。
私もヌーソロジーを勉強し始めたころは、チンプンカンプンでした。
ですが、シュタイナーの教えによって、この意味がようやく理解できるようになりました。
少し遠回りなお話になりますが、シュタイナーの教えを通して、「本当の意識」についてお話したいと思います。
シュタイナーの「意識」の教え
私たちにとっての「意識」とは、
といったように感じているかと思います。
「意識=自分」という、とらえ方もあると思います。
しかし、「意識=自分」が持つ意味は、とてつもなく奥深いものでした。
シュタイナーの解説
シュタイナーは、人がある対象を認識するとき、霊的世界で下記のようなことが起こっていると話します。
物質世界においては対象を自己の外部に見ますが、霊的世界においては対象を単純に自己の外に見るのではなく、対象外部から自分自身が対象内部に流れ込み、自己と対象を一体化させ、対象をその内部から経験、観察していくのです。
もう少し具体的に説明しますと、霊的な対象意識においては、霊的空間においてまず、自己の魂が認識対象を取り囲むように、12の位置に分散して存在するようになります。
(中略)
高次自我が、この12に分散した魂全体を統括しています。
そして、分散した魂のそれぞれの位置から、自己の思考、感情、意志という魂の成分を認識対象に流し込み、自己意識を維持しつつも認識対象と一体になって、その対象を対象内部から経験、観察していくのです。
これが霊的世界における対象意識の重要な特徴です。
シュタイナー思想とヌーソロジーより
詳しく説明してみる
上記を説明すると、「わたし」がある空間を認識するとします。
そのとき、「わたし」の魂が12個に分散し、霊的世界という「外在空間」からその対象を取り囲みます。
魂が対象を取り囲むと、魂それぞれの位置から「自己の思考・感情・意志」を対象に流し込みます。
そして「わたし」は、肉体を通して対象内部に入り込みます。
対象内部に入り込むと、そこは自分を取り囲む「空間」となっていて、「わたし」は肉体を通してあらゆることを経験・観察していきます。
このシュタイナーの教えが意味していることは、以前の記事でも触れましたが、私たちは「肉体」を持つことによって、すべてから分断された意識状態になっているとお話しました。
解説のまとめ
なので、自分を取り巻く空間を見ても
私の「外」に空間がある。
私は空間に囲まれている。
私はちっぽけな存在だ。
と感じます。
ですがシュタイナーの教えでは、「まず最初に対象(空間)に自己の意識・感情・意志を流し込んでいる」とのこと。
つまり、結論をいってしまえば、
対象(空間)そのものが「わたし」である
ということになるかと思います。
でもそのままだと、対象(空間)と「わたし」が一体化してしまっているので、対象内部を経験・観察することはできません。
たとえるなら、私たちの体の内部は、自分の目で見ることはできませんよね?
わざわざナイフで切って、傷口をビーっと開いて、血を流しながら体内を見る、なんて恐ろしいことしませんよね(笑)
なので「肉体」という分離装置を通して、対象内部を経験・観察できるようにしていると考えることもできるなと思いました。
なので、私たちの「肉体」とは
肉体潜望鏡
の役割を持っているといえます。
意識とは「空間」のこと
シュタイナーの教えを通して、改めてOCOTの発言を考えてみると、
○○とは、あなたがたの意識に映しだされた精神です。
この「意識」とは、シュタイナーの教えも合わせると、こういうことになります。
○○とは、あなたがたの「空間」に映しだされた精神です。
意識とは「空間」のこと
ということになります。
半田さんはOCOTの発言を、このようにおっしゃっていました。
OCOTたちは、「意識構造」と「空間構造」をまったく同じ意味合いで話している。
う~ん、なんとも難しい話ですよね。
なので、ここで登場!意識活動の表!
意識活動では、観察子の数字が大きくなると、自己の意識が対象とするものは「物→個→集団」へと、意識領域が広がっていきます。
この「意識領域の広がり」が「空間(次元)の広がり」になり、「空間(次元)の広がり」が「次元階層の上昇」という意味になります。(逆もしかり。)
なので私は、意識活動、そして意識領域がどういったときに広がりを見せるのかをしっかり把握することが、ヌーソロジーの構造理解の第一歩だと考え、意識活動に焦点を当てています。
カタチについて
無限遠点から見る空間=カタチ
もう一つ重要なお話があります。
今私は意識を「空間」としましたが、それは肉体という潜望鏡を通して眺めている対象内部のことをいいます。
しかしヌーソロジーが目指すことは、3次元空間の外である、無限遠点から見ている本当の「わたし」の位置を見出すことです。
すると、その外から眺めている物質世界は、「空間」とは呼べないものになってきます。
正しい表現として、ヌーソロジーでは外から知覚していこうとするその「空間」を
カタチ
とよびます。
「カタチ⇔空間」は「意識」のことですから、
カタチ=意識
というような意味になります。
意識の見える化
私たちにとって「意識」は、自分の中で勝手に活動しているものだと思っているので、この新しい概念はなかなか理解しづらいと思います。
そうなんです。
私たちは「意識」は勝手に湧いてくるものだし、勝手にうごめいているものだと思っています。
これまでプレアデス領域において、人間は受動的だったので、「意識」も勝手に流動しているだけでした。
ですが2013年に私たちの意識がシリウス領域に入り、「意識」に対して違う視点を持つことが必要になりました。
それが…
意識のカタチ化
です。
意識をカタチとして捉えるんです。
意識を空間として捉えるんです。
意識の見える化です。
「意識」とは、自己内部で勝手にうごめく目に見えないものではなく、しっかりカタチを持っています。
なので意識活動、意識状態によって空間のカタチが変わり、次元も変わります。
ヌーソロジーはその意識活動がどう空間に影響を与えているのか、意識活動によって変化するカタチを見つけ出して、人間の意識を正しい位置に戻すことを目指しています。
カタチを動画で見てみよう
ちなみに「カタチカタチ」といっても、イメージしづらいと思うので、動画を見てみましょう♪
このように、ヌーソロジーでは意識を丸いカタチとして捉えていきます。
そして、そのカタチの集合体は、
幾何学構造体
というカタチになって現れてきます。
今はまだ難しいので、なんとなく「へ~そうなんだ」くらいでOKです!
なぜ意識の見える化が必要なのか?
なぜ「意識の見える化」が必要なのか?
私個人の考えとしては、以前カバラの「生命の樹」のところでお話した、最上位の「ケテル」からアインソフの光が流出しており、その光があまりにも強すぎて上位にある「ケテル・コクマー・ビナー」の3つのセフィラーを残して、中間領域にあるセフィラーがすべて吹き飛んでしまったという、「器の破壊」事件に関係があるのかな?と考えました。
その中間領域は、ヌーソロジーでは「シリウス領域」に該当します。
なので、陽炎のように見えなくなったシリウス領域を再建するために、「意識の見える化」が必要なのかなと思いました。
まとめ
今日のお話が超絶難しいのは、100も承知の助です!
このお話をまだまだ先に取っておこうと思ったのですが、私の読者さんの中に真剣に「霊・魂・意識」について学びたい!と思われている方がいらっしゃいまして。
今後の記事でも頻繁に「意識、意識」と言葉が出てくるので、混乱させてしまうかもしれないと思い、ちょっと前倒しで記事にしてみました。
どうしても説明上、通常の「意識」という意味合いで使うこともあります。
混乱を招いてしまうかもしれませんので、みなさんの頭の中の辞書に、
という、二種類の意味を追加していただければと思います。
きっとヌーソロジーが世の中に広まった暁には、広人苑に二つ目の意味が掲載されるかも♪
次回もお楽しみに♪
▼ 参考文献 ▼
コメント
natanさんこんにちは(*^-^*)。
シュタイナーの言う高次自我はスピリチュアルでハイヤーセルフと呼ばれる存在でしょうか。
魂が12個に分散しているのを見て神道の一霊四魂が浮かんだのですが直霊が魂全体を統括している高次自我で分ける数は12と4で違いますが同じ働きをしているのでしょうか、それとも一霊四魂とは全く別のものでしょうか?(もしnatanさんの範囲外の質問でしたらすみません)。
また、意識とカタチというものを捉えるのが難しいのですが仮に自分自身が高次自我で体内が三次元空間だとしたら自分の体内の細胞の経験をしたくて体内という自分の空間内に意識として次元を落として入り込み、細胞の内側から体内空間を体験するのを体の外から高次自我の自分が眺めている(体がカタチ)といったイメージは合っているのでしょうか?
おかひじきさん、ご質問ありがとうございます(^^)
>シュタイナーの言う高次自我はスピリチュアルでハイヤーセルフと呼ばれる存在でしょうか。
はい、それに該当すると思います。
ただしヌーソロジーで言われているのは、「ハイヤーセルフはこれから育てていくもの、作りだしていくもの」とのことなので、シュタイナーの文脈も「高次自我を育てる」という話なので、一般的にスピリチュアルで言われているハイヤーセルフとは違うようです。
一般的に言われている方は、ヌーソロジーで言う「主体」に近いもので、それは高次自我ではないイメージだと私は考えています。
>魂が12個に分散しているのを見て神道の一霊四魂が浮かんだのですが直霊が魂全体を統括している高次自我で分ける数は12と4で違いますが同じ働きをしているのでしょうか、それとも一霊四魂とは全く別のものでしょうか?(もしnatanさんの範囲外の質問でしたらすみません)。
上記に関して、私は無知なのでわかりません…、ごめんなさい。
>また、意識とカタチというものを捉えるのが難しいのですが仮に自分自身が高次自我で体内が三次元空間だとしたら自分の体内の細胞の経験をしたくて体内という自分の空間内に意識として次元を落として入り込み、細胞の内側から体内空間を体験するのを体の外から高次自我の自分が眺めている(体がカタチ)といったイメージは合っているのでしょうか?
この場合、「高次自我」というようは「存在」かなと思います(高次自我は低次自我が成長したもののようなので、それと「存在」は別物という認識の方がよいかもしれません)。
そして体内は四次元空間ですかね。
この宇宙のイメージに正解はないので、おかひじきさんが思い描く宇宙像はおかひじきさんオリジナルのものでよいと思います。
でも私もじつはおかひじきさんのようなイメージで宇宙を想像していて、「きっと存在は自分のことを内側から体験しているんだろうな~、これが本当の”自己知”かも」と考えています(^^)
ヌーソロジーでいうカタチは「観念」的なものなので、細胞ではないです。
哲学者プラトンは「イデア論」というものを考えました。
イデア論とは「私たちが肉体的に感覚している対象や世界はあくまでイデアという原型のコピーにすぎないとする考え方」のことです。
宇宙はたった一つの鋳型(いがた)がフラクタルに展開することで、ここまで複雑な世界を作りだしているようです。
https://noos.cosmolifeology.com/idea-theory_02/
このイデアこそ、ヌーソロジーでいうカタチのことです。
人間の意識もこのカタチというイデアを元に作りだされているようです。
そして、イデアのフラクタル性を考えると、細胞自体もカタチが生みだしているとするのが正しいかもしれません。
結論として、「カタチとは宇宙の鋳型」だと思っていただければよいかなと思います(^^)
よろしくお願いします。
natanさんありがとうございます。
ハイヤーセルフはヌースだとこれから育てていくものなのですね。なんか親近感がわきます。確かにそれだと一般的なものと少しイメージが違います。
神道の質問はヌーソロジーの範囲外なのに申し訳ありませんでした。
カタチとは宇宙の鋳型!敢えて視覚的に図にするとリンク先のような鋳型になるけれど宇宙の摂理の中の形のない型のようなものなのですね。スッキリしました。ありがとうございます。
体内は四次元なのですね。驚きです。
実は今外面と内面がよく分からなくて記事をあれこれ遡って読んでいるうちにこの辺りからもう少ししっかり頭に入れないと理解できないのかなと思いここに辿り着いたのですが、外面と内面を考えていたらものと空間についてもよく分からなくなり、教えていただけますでしょうか。続けての質問ですみません(もし別記事で質問した方がよければ改めてそちらで質問させていただきます)。
質問
普通の辞書には「空間とは物体が存在しないで空いているところ」とありますがヌースでの空間は物体も含めた場の事を空間と言っているのでしょうか。
半田さんは私達はものであるとも私達は空間だとも仰られているのですが自己の意識が空間にあるのは理解出来たのですがものでもあり空間でもあるというのがよく分かりません。
これは素粒子レベルでは私達の意識は普段私達が物体として見ているものの中にも空気のように見えない空間の中にも同じように入り込んでいるから私達はものでもあり空間でもあると言えるという事なのでしょうか?
それともnatanさんが体内は四次元と仰るようにものの内面は四次元で
私達は四次元からものをみているのでものと私達は同じという事なのでしょうか(その場合空間である私達との違いは何なのでしょうか)。
>もし別記事で質問した方がよければ改めてそちらで質問させていただきます
その他の記事も読んでここにたどり着いていただいたので、ここでの質問で構いません(*^^*)
>普通の辞書には「空間とは物体が存在しないで空いているところ」とありますがヌースでの空間は物体も含めた場の事を空間と言っているのでしょうか。
はい、その通りです。
私たち人間は「図と地」をそれぞれ別物として捉えますが、ヌースは「図と地」をセットで考えます、イコールそれがヌーソロジーでいう「空間」です。
https://noos.cosmolifeology.com/pusai3-4_05/
>半田さんは私達はものであるとも私達は空間だとも仰られているのですが自己の意識が空間にあるのは理解出来たのですがものでもあり空間でもあるというのがよく分かりません。
半田さんがおっしゃるのは物質のことではなく「モノ(カタカナ表記)」です。
そして空間とは、上述した「図と地」がセットになったもので、じつはヌースで言う「空間」と「モノ」は本質が同じものです。
物質は三次元空間内に存在しているもの、モノは空間と物質をセットにした、一つ上の高次のものの見方だと思います。
物質ではない「モノ」とは、平たく言えば「記憶」、もしくは記憶よりもっと深く奥にあるもの…ですかね。
ただ、半田さんが「モノ」について語るとき、物質のことだったり、モノだったり、その時々で表現がまぜこぜになっている場合があります。
なぜそうなるかというと、半田さんの意識の位置が私たちと違う位置にあるからだと私は考えています。
半田さんはつねに等化側から語られるので、それは反転した世界からの見方です。
その世界は私たちと同じ「前」ではありますが、半田さんが捉えている「前」は私たちが捉えているそれとは別物です。
私たちは半田さんの言葉をそのまま受け取ってしまいがちですが、それは反転した世界からの見方なので、じつは半田さんの言葉を逆に反転、つまり翻訳しなければいけないということを皆さんあまり気づいていないようです。
ではヌーソロジーでいう「空間」を反転翻訳するとどうなるか。
それは目の前の三次元空間のことではなく、「心の中の世界」ということです。
そしてその空間には一人ひとりの記憶が息づいていて、それを「純粋持続空間」とヌースでは言います。
ヌーソロジーが語る空間は、その純粋持続空間のことです。
そして上述した「モノ」とは記憶のことだと言いましたが、半田さんが捉えているモノ、そして「前」という空間は、ヌースで奥行きと言われる純粋持続空間のことを指します。
半田さんの意識の位置までいけば、その純粋持続空間が私たちが認識している空間のように、目の前に反転して出現してくると思われます。
よって、半田さんが「モノ」や「物」を混ぜて話しているように感じるのは、見ている世界は「前」だけど、捉えている世界が私たちと違うから…だと思われます。
等化の意識の位置に達したとき、はじめて「空間=ワタシ」の意味がわかると思います。
なぜなら、純粋持続空間は≪ワタシ≫という心そのものだからです。
なので、半田さんがおっしゃる「空間」と、私たちが捉えている「空間」は別物で、半田さんの空間認識は私たちより高次の見方としてご理解いただいた方がよいかなと思います。
>これは素粒子レベルでは私達の意識は普段私達が物体として見ているものの中にも空気のように見えない空間の中にも同じように入り込んでいるから私達はものでもあり空間でもあると言えるという事なのでしょうか?
>それともnatanさんが体内は四次元と仰るようにものの内面は四次元で
私達は四次元からものをみているのでものと私達は同じという事なのでしょうか(その場合空間である私達との違いは何なのでしょうか)。
上記のご質問は、これまで回答したことを踏まえて空間という概念をもう一度考えていただくと、質問そのものが成立しなくなると思いますので、このご質問に対する回答は控えさせていただきますね(*^-^*)
あと…
>自己の意識が空間にあるのは理解出来た
シュタイナーの解説を入れてしまったので、ややこしくさせてしまいましたね。
自己の意識が空間に「ある」のではなく、空間それ自体が意識だということです。
平たく言えば、「意識が空間をそう見せている」みたいなイメージなんですが、どうも一般的なスピを連想させてしまいそうで、表現が難しいですね…(;^_^A
「意識が空間に流れ込む」というのはシュタイナーの表現であり、既存の空間概念を変えられたらいいなという当時の私の思いがあって記載したのもなので、今思うとこの記事自体、掲載して良かったのだろうかと考えてしまいますね…う~む。。。
ヌーソロジーでいう空間は純粋持続空間のことで、そちらの方で理解を進めていただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。
natanさん詳しく教えていただきありがとうございます。
モノについての捉え方が誤っていたのだと分かりました。
モノとは空間と物質をセットにした一つ上の高次のものの見方であり、記憶の奥底にあるような何かで、奥行きと言われる純粋持続空間を指すのですね。そして純粋持続空間は≪ワタシ≫という心そのもの。だから私い=モノなのですね。
なんとなく見えてきました。
空間については空間それ自体が意識だという感覚だったのですが私の表現が悪くてすみません。シュタイナーの表現のほうがイメージしやすいのですがヌースはまた違うのですね。もっとシュタイナーとヌースの違いを学ばなくては、。「意識が空間をそう見せている」という感覚はまだつかめないのですがこれからゆっくり消化していきます。
どうもありがとうございました(^^*